随筆

「詩界随想 “売れる詩”と“売れない詩”」

★名を忘れたが、正月、東京の詩人・画家・意匠家・脚本家などが組んで「詩を売ります」のキャッチフレーズを流しマスコミへPRした。成果はどうか判らぬが面白い試みだ。詩作を業とする人は詩で飯をくわねばならない。つまり「詩を糧」とする職業人だ(私らが「詩を糧」とするのは心の糧だが…)から「売れる詩」の制作・セールスを大いに考えるべきだ。それには媒体が問題だ。歌謡・民謡・童謡などは「詩と音」の結合にすぎず、これだけの結合ではレコード位では飯のくえる詩人は少数だ。それでもウタの世界には放送等の糧道があるが、現代詩となると困難だ。詩集の一冊や二冊の印税は高が知れているし、原稿一枚が作家なら一万円、詩人なら千円位だ。そこで「売る詩」から「売れる詩」へ移行する要がある。色々の媒体によって大いに詩を売り込んで呉れ給え。NHKのノド自慢のように大衆へ詩を流し、それによって大衆の中から高貴の詩を噴出させる迎え水・ボーリングとなるように、但し本質を忘れないように!
★1月14~19日銀座竹川画廊で「墨象と詩と音の構成による実験展」が開かれた。これも似た試みでいいことだ。しかし月並以上でないから成果は疑問だ。新時代には新時代らしい総合芸術のコンビネーションが益々必要になってくる。要は「芸術の起源」を現代的に潮及することだ。万葉精神とか、先史時代への探求とか、古代芸術のリバイバル等々と同じ現代精神の発揮だ。ここから新ルネッサンスが羽ばたく。井蛙は不可哲学を現実に活用することだ。
★昨秋、野間児童文芸賞を貰った作家石森延男氏は「愉しいから書く」「存在外の存在に人間限界の感覚解放に私らしいものが生きている」と読売に書いていたこれは芥川竜之介の「小説は作者の詩的精神の純粋か不純かによって決定される」と通じている。二人とも詩人だ。ところで、昨秋来日したベルリン・ドイツ・オペラ総監督で演出家のグスタフ・ルドルフ・ゼルナーは「演出家はまず詩人の言葉に耳を傾けるところからはじめるべきだ。詩人に耳を傾けるということは言葉遣い、詩的な美等を十分知ることだ」と述べた(吉田秀和氏訳・38・12・2読売夕刊)げな。同じことだいいたいことは「売れる詩」を職人・芸人的に大いに書いて貰いたいのと同時に、「売れない詩」も同じだということだ。むしろ少数の「精神的貴族」の聖典となる詩は現在の時点では買われないが、百年後の、一切の芸術の軸になるのだ―という自覚に立って、その上で現在の時点にマッチしてほしいということだ。
(39・2・21 T・N)

掲載誌:『詩と民謡 北日本文苑』第22巻 四月号 復刊43号 通巻143号 1964 早川孝吉氏追悼号
北日本文苑詩と民謡社