随筆

「わが生・わが死①」

★青少年の自殺が世界的に多くなってきたといわれる。特に日本は上位を占める最近の警視庁統計書によると、ここ数年間の年間自殺者は二千人台をこえ、その過半数は二十五歳未満で、この正月松の内だけでも青少年は五人も自殺しているという。統計上からみた青少年の自殺の原因は「親子間に共通の“言葉”がない」というのが多い。つまり親子間の溝の距りが青少年を死へ追いやっているという。親(生活苦からの一家心中等の場合は国家・社会が親だ)が悪いということに帰する。要は誤った「愛」が問題だ。
 由来、若くして自殺する型は秀才型だ痴愚は自殺しない。生物で自殺できる特権を与えられているのは人間だけだが、その人間が「真に生きる」義務を忘れて特権を濫用しがちだ。「人生不可解」と華厳滝に投身した藤村操一高生はいわずもがな、芥川竜之介、生田春月等々、天才・秀才型はとかく自殺する。(自殺論を書くと何百枚にもなる。その暇もないし本題でないからやめるが)小我の浅智慧で大我を測ろうとし、一人相撲に負けて壁にぶち当り現実苦から死に逃避するいわば自意識過剰の終点(絶望)からだ。これは真の詩精神(宗教精神と奧は同一)がないからだ。真の詩心は絶対愛に終始する。つまり小我・大我一体、主客一如のものだ。池田首相は今やっと「人づくり」をいうているが、その根本は道徳(法律と同様に時空によって変る)の上にある真の詩精神(宗教精神)にある。文相、否、首相はガンジーのような絶対愛に終始する者を任じた方がいい(夢だが……)
★今日は成年式だが、国家社会から満二十歳への祝福をうける今の若人は幸福だ昔は徴兵検査(この問題についてかくとやはり何百枚にもなる。戦争と愛国心、ヒューマニズム等々だ)が人生の関門であった。この関門が問題だ。この関門の厳しさを知らずに成長する者もあるが関門の厳しさに当って自殺する者もある私はどうにか厳しい関門を通りぬけたが私の生死観、人生観はこの関門にぶち当って確立したといえる。
 小学生時代、畑の畦に捨てられたままの石器、土器の破片を拾い、遠い昔の父祖を偲びそれらの「生と死」を想った。小学六年の時に二つ年上の本波先生が着任した。本波先生は高等小学校二年で准教員の検定試験に合格し、そのまま退学して草鞋ばきで着任して来た少年教師であった。山村の小学校(先生は三人)は複式教授で、高島耕文校長は五六年生、本波先生は三四年生、本井喜代先生は一二年生を教えるという分教場みたいなものであった。
 高島校長は六年生の私に代理を命じて役場へ碁打ちによく出かけて中々帰校せず、私は致し方なく、同級生や五年生に国語など教えたりしていた。時々、高島校長は、三、四年生担任の本波先生と私の二人を朝から天神山にある学校園へ草むしりに出された。
 私の竹馬の友(殆んど戦死)の多くは年上だったが、竹馬の友と同年の本波先生と私の二人は、石器民族の遺蹟のある学校園で草むしりをしながら静かに話をするのを楽しんでいた。天文学の星雲説などを教えてくれたのが本波先生であった。(その本波先生も勉強しすぎて十九歳で自殺された)私の考古学、天文学趣味は小学時代からのものだが、さて、私も人生の関門を前にした十九歳の秋「不治の病」といわれた肺病に罹り、改めて自身の「生と死」の問題にとりくんだ。人間がいつから地上に現われたか、なぜ生れて死ぬのか、宇宙に限界があるのかないとすれば無限の時間と空間の究極はどうなのか等々、考古学、天文学趣味と入り交って、悩みに悩んだ。
 沢山の人々の死をみて来たが、二十歳にもならぬ若さで、学業半ばにして「さて俺が死ぬ」と思うと無念であった。せめて父が死んだ四十八歳まで生きたかったのに――と思うとやりきれなかった。父は禅宗、母は真言宗であったが、母の感化で宗教精神は私に芽生えていた。(小学六年生の時、高野山別院の柳川住職から後継者にするための小僧にと望まれ高島校長の推薦を受け、母や兄から勧められたが断った。もしあの時出家していたら面白い坊主が出来て相当暴れただろう―と先年、真言密宗管長の故中田法寿和尚と笑いあったものだ)だから学生時代も寺や教会へよくいったが折角の名説教も納得できなかった。(早大の同級生にキリスト教、仏教等の比較論を求められて一席ブッタが、過半数は洗礼をうけてクリスチャンになってしまった。)基釈老回等の教えは理解できたが頭脳だけに終り、毛穴から入って、なかった。そのため、闘病しながら、自分で「生と死」の問題を解決しなければならなかった。ついに或る境地に達していわば一種の悟りを開いて、身心とも救われた。その鍵は詩精神に他ならなかった。
★誰にも判ってもらえないし、教えてもくれない「生と死」への疑問、それを考え考え、山や谷や野を相手に孤独を味わった。ふと、名も知れぬ雑草が緑の葉に白い小さな花をつけているのに足をとめ何時間も眺めていた。
 そのうち「誰に見しょとて紅かねつけた」ではないが、一本の雑草が黙々営々と生の営みを続け、現在に最善をつくしていることに気がついた。白秋の「薔薇の木に薔薇の花咲く、何ごとの不思議なけれど」の驚きに似ていた。それから、「自分がこの一本の雑草であったら」と身をおきかえ、雑草の立場から周囲を眺めてみた。悉く驚異の世界ばかりだ。一本の雑草になって、そこに自分を眺めている病み衰えた神経質な「中山輝」という符号のついた化物を泌々みると「俺に目も鼻も口も耳もないし、俺は一歩も歩けないし、自殺もできないのに、この人間という奴は見たり聞いたり、喋ったり歩いたりできる。
 俺は根という足と、葉という手からしか栄養をあるがままに摂れないのに…人間て何て幸福な存在なンだ。俺は馬にくわれてしもうし、人間に全身つかみとられてすてられてしもう。まァいいさ。どうせ、此奴も俺も早晩死んでしもう。あるがままに、俺は俺なりで、現在の時と所に立って最善をつくすだけだ。現在に最善をつくして、そのあとは折られようと、すてられようと、枯れ死のうと、俺のせいじゃない。俺は俺なりに悔いのない生き方をするだけだ。誰も認めてくれんでもいい。俺が俺自身に最善をつくせばいい、それが俺以外の存在への最善になるのだ。いや、なるか、ならぬか判らぬが、俺は俺に最善を尽すことが同時に俺以外の存在に対する最善になると信じ切って生きていくことでいい。そこに俺の存在の意義と価値があるんだ」と思わざるを得なくなった。
 眼を傍らの小石に移し、今度は小石になってみた。すると雑草の生々とした、充実した美しさも、小石である「私」ほどの眼をした「中山輝」という化物も哀れに思えて来た。「草も木も鳥も獣もこの中山輝という得体の知れない怪物も可哀そうな奴共だ。俺に生命がないと思っているようだ。生者必滅の事理から逃れられないのに、この草などいい気になって俺に凭れて小さい花をつけ、蝶や蜂なんかを招待している。おかげで蝶もゆっくり研究できるというもンだ。鳥だって、いい気になって空を飛びながらウンコを俺さまの上に垂れ掛けて涼しい顔をしている。
 だが、俺は死なない。死なないということは生きていることであり、また死んでいるということだ。絶対ということは詰らん。絶対なンてあるか。絶対即相対だ。肯定即否定だ。俺なんか瞬時も生と死の間にいる。生死一如が俺の内在だ。こら、中山輝という青二才、深刻ぶるなお前ら「霊長の動物」なんて自惚れているものに何が判るか。空をみろ、光がいっぱいだ。光というもンは虚しいところに充満するのだ。あの光で今は何もみえないが、光が退散した夜空になると星が天を埋める。お前も天文学趣味があるから判ろうが、太陽系宇宙は、あの銀河系宇宙(天の川などというとるが)に何百億とあるんだぞ。その銀河系宇宙がまた大宇宙に何百億と散らかっとるでないか俺のような奴は大宇宙に無尽にいるでないか。お前みたいな奴は銀河系宇宙にだってあちこちの太陽系宇宙の中の一つか二つか知らんが、地球と同じか似た条件の遊星にワンサといるでないか。もっとお前らより進歩した動物がいるだろう或いは火星に、そこにいる苔の親類みたい奴もいる。一体、中山輝よ、お前は月の裏側をみたことがあるか。月の表面だけみていて何が判るか。俺に生命がないなどと思って蹴飛ばしたり投げたりしているが、俺は俺なりで生命・情熱に燃えているんだ。潜熱というかな。非情即有情を俺の限界点いっぱい、形の内側いっぱいに充満させているんだ。俺と俺の仲間がカチンとぶち当ると火花を散らすだろう。潜熱が、内在が、生命が燃えるのだ。また、俺をいくつにも割るだろう。俺の分身が独立するんだ。形の上ではもはや元の俺でないが、でも、俺に変りはない。一はあくまでも一でないんだ。一即ゼロ即三…無数なンだ。俺がいい手本でないか。中山輝という化物よ、お前は一にすぎないと思っとるのか。お前も俺と同じだ。形は一だが、本当は無数だ形にこだわるな。眼にみえる限界をこえろ。眼にみえないものこそ本物なんだ。お前の肉体、形は消えてなくなる。それが当然だ。眼にみえるものにこだわるな生と死が何だ。生楽し、死もまた楽しでないのか。死後のことを考えているのか死んでみなけりゃ判らんでないか。生の世界は陸だ、死の世界は海だ。お前は陸と海との境界線の汀を迷っているだけだ水の上を歩いてゆけるのはキリスト等々だ。凡俗の身の癖に、水の上を歩こうなどと大それたことを考えるな。生命は海から陸へ来たが、陸にいた鯨は海へ帰って安楽しているでないか」ということになってしもうた。
 じっとしていると、私が草や石なのか、草や石が私なのか、判らなくなったが、要するに自他一如。主客一如にすぎないということに帰着した。

掲載誌:『詩と民謡 北日本文苑』第22巻 二・三月号 復刊42号 通巻142号 1964 能村潔著詩集「反骨」出版特集 北日本文苑詩と民謡社