★「批評家に二種類ある。人が何と言わうとお構いなく自分自身で判定する批評家と、誰の感情も害さずに最大多数の人々に讃成して貰うために自分がどう考えるべきかを、まず自問自答する批評家である」とは故正宗白鳥が読んで紹介した訳本の一節(36・10・5読売夕刊)だ。「西洋の批評家も、日本の批評家も同じことかと思われる。しかし必ずしも前者がいいとばかりは思えない。大してすぐれてもいない批評家の独断的批評よりも多数者の考えを考慮した批評が穏当である場合もありそうだ」は、その時の正宗白鳥の感懐だ。さて、今の日本ほど批評精神の欠けている時代はない。各界とも愚民への迎合批評が定型だ。新聞の社説(社説ということ自体変だ)を初め皆然り。真の批評家は正宗白鳥らの言う二種でなく唯一であるべきだ。特に芸術の世界は東西古今同じ故しかり。更に詩文学に批評精神が薄い。真・正・愛(翁久允教祖の教義じみるが)の批評のないところ、何も育ち伸びない。批評よ、世に地に満てよ批評を批評する者出でよ。筆者を叱る者出でよ!
★第四回「歴程」フェスティバルで、漸く第一回歴程賞(五万円)が詩壇・出版界の功労者の故ユリイカ社主伊逹得夫氏の遺言「ユリイカ抄」(37年刊)と「生前の詩精神に貫かれた出版活動」に贈られた。それが「詩人祭典」として、盛会だった(38・6・11読売夕刊)げな。歴程賞とは何か知る由もないが、故人に世話になった多数が今やっと賞を贈ったとは呆れた話。派閥・島国・シミッタレ・小人等々同じ根性だ。精神の高貴はいいが社会的にも顕わすときは乞食根性を出すな。筆者も表彰癖があり沢山実行し、今も承継されているが賞(批評の上)ほどむずかしいものはない。それは判るが、現代詩人会のH氏賞(匿名自体変だ、寄付者の意志にしろ)とやらの尾を曳くような賞なら、ない方がマシだ。むしろ出すなら、「ナニモナイデイイデ賞」か「ナニモアゲルホドノモノモナイデスガイイデ賞」にした方がマシだ。ドダイ、詩人は死人になってから脚光をあびる型らしい(宮沢賢治等々)が、別に政府のマネをせんでもよかろうではないか。せめて、詩壇ぐらいは、俗世を離れた表彰をした方がいい。官製表彰を喜んでいるようでは、時代の先駆者たる詩人の資格がない。(T・N)
掲載誌:『詩と民謡 北日本文苑』第21巻 八月号 復刊36号 通巻136号 1963 北日本文苑詩と民謡社