大正十一年八月、旧制の県立魚津中学校五年生の時、飛越加能一周の無銭旅行に出て、飛騨白川郷から上平村へ入り、当時講談社の雑誌「寸鉄」に「国勢調査で新しい日本の三大秘境を発見」として越中桂・飛騨加須良が紹介されていたのを憶い出し、崖崩れで所々欠壊し、草木が繁って妨げている細い山路を難儀して辿って両部落を訪ねたことがある。また、昭和六年九月、県議戦に初出馬の井波町綿貫佐民氏(戦後代議士に当選。綿貫民輔通産政務次官の厳父)に頼まれ「身代り」として上平村を遊説して廻り、戦後は講演のため度々訪ねたので、上平村は親しみ深く懐しいところである。
このたび「上平村民のうた」作詩に際して黒坂富治さんのお伴をし、二十数年ぶりに上平村を訪ね、殊に廃村になった旧桂部落を五十数年目に見ることが出来て感無量だった。富山を離れて十七年、自然を失ったセメント文化の「沙漠東京」で俗塵にまみれている者として「同じ住むならこんなところに」とお世辞でなく泌々思った。
ところで、富山県に「県民のうた」があり、九市の中で富山市だけに「市民のうた」があって、他の市町村にそのようなものがなかったが、今「上平村民のうた」が制定されて、県下で三番目になり、一つの「さきがけ」になったのは嬉しい限りである。ただ、歌詞が盛り沢山のため思うように参らなかったので、非力を恥じると共に申しわけなく思っている。幸いに黒坂さんの名曲に助けられて多くの人々に歌っていただければ――と念ずるばかりである。
掲載誌:『上平村民のうた』富山県東礪波郡上平村