「馬」

赤犬や三毛猫や鶏どもと遊んでいた若駒は 遠い都へ売られて行った 六本杉の峠の鼻かけ地蔵さんに見送られ素枯れの野末へ落ちる日を背になきながら 吉原土堤の中江屋で誰彼にたべられるために……

もうあの柔毛はむしりとられ やわらかい皮はいくつもの小太鼓になって デンデコ デンデコ 子供らに叩かれているだろう

あの三毛猫が大阪から来た人のワナにかかって 温泉芸者が涙かくして役人たちの阿呆踊りをはやす三味線になって ないているように

もうなくこともできなくなった老馬は 垂れ流したままの糞尿の匂いに埋れて 傾いた厩の寝藁に横になったきり 帰らぬ若駒を恋い慕い 横暴な時間に苛(さいな)まれるままに 二度と呼吸をしなくなった。誰彼にたべられ 皮は若駒と別のところで どこかのお宮の太鼓になって 教師をしている神主に鹿つめらしく叩かれるために……

婆さんがいくら泣いてくれたとて 一生うだつのあがらぬどん百姓に可愛がられた揚句 骨までしゃぶられるための仮初だった

だが 可哀そうに婆さんは知らない
あの老馬も若駒も一緒に生きていることを
  光を織る雲になって
  黒駒だったら黒い雲になって
  若駒は赤馬だったから茜雲になって夜も昼も谷底のぺんぺん草の生えたこの藁屋根の上を行ったり来たりして 村の子供たちを遊ばせていることを……

若駒が空の果てへ駆けていくと
老馬がなきなきあとへついていく

いつのまに雲になったのか 時としてあの三毛猫や赤犬や鶏どもも仲間入りして 虚しさを縫うて戯れている
もうみんなはこの地へおりてくることもないだろう この争い合い殺し合う地へ

仮りに馬に化(かえ)って遠くからおりて来ただけなんだから

元初へ戻ったきり 天になったきり
哀歓の紐を光の襞に托して
形をみせているだけの圓のふちに乗って無限になっているんだから
(41年3月4日午後1時半池袋―上野)

掲載誌:『日本詩』 第24巻・復刊63号 通巻163号 1966 4月号