三、「死への道」(3)
霊魂は肉体が死んでもなおどこかで生きていると思うから、古代以来、ピラミッドをつくったり、巨墳を築いたり、教会・神社・仏閣を建てたりし、またそれぞれ墓地(何と何々霊園の造成が盛んなことか)を求めたりしている。そして命日になると各人各様に宗教的な儀式を行ったりして故人を偲び、お盆になると墓まいりしたりしている。
宗教は阿片だとしていたソ連にしても、レーニン廟をつくったり、スターリンの葬式をしたりして、人間感情を無視できず、ロシヤ正教などを認めている。一個の有機物にすぎない人間なんかは、本来の核酸等々から無機物へ返るのが自然だから、私が家族らに
「おれが死んだら死体を大学病院へ寄付しろ。火葬の手数が省ける。骨は野良犬か野良猫の餌にするか、田畑の肥料にしろ。墓は建てるな、葬式するな。誰にも知らせるな。それでも淋しければ骨片の一かけらを植木鉢の土の中に入れ、墓の代わりに路傍の石をのせ、雑草を植えろ。線香の代わりにタバコの吸い殻を拾って来てくすべ、出来たら焼酎の五勺でも小石にかけてくれればいい」
と遺言している(果たして馬鹿な妻子は実行してくれるか、どうか怪しい。私の兄妹をはじめとする親類縁者は世間体を考えたりして、たとえ妻子が実行しようとしても反対するにきまってから)のは、私なりに一つの悟道に入っているからである。霊魂不滅説も「神が死んだ」現代では通らないし、迷信(一体何を以て正信とするのか、主観の問題にすぎないのでないか)として一蹴されよう。しかし、浅間山荘で誤ったマルクス教の亡者共が残酷非情(これを唯物といい、合理的と称する)に同志を殺し、独房に入り、死刑宣告を前にして「人間とは何か」と孤独を感じ、時には泣くという。これはなまじっか知能に恵まれた「人間」という怪物の傲りの底に潜む「死への道」の孤独の液しさ、人間の弱さの現われにすぎない。
彼ら(昔の出征軍人も重傷を負って野戦病院に収容され、軍医らに見守られて絶命する時、衆目の前だから「天皇陛下万歳」といって死んだというが、第一線で私の友人に抱かれて戦死する時、母か妻か子の名を呼んで絶命したという。これが本当である。周囲に人がいると虚勢を張って“英雄”の真似をして死にたいと願うのは自然である。しかし、若山牧水の「白玉の歯に泌みとおる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけり」ではないが「白玉の歯も欠け果つる秋の夜の野末にひとり死ぬべかりけり」となるには、よほどの「英雄」でなければ出来ることでない。人間、孤独に徹してこそ孤独でなくなるのだが……)は天下を強奪した徳川家康の黒衣宰相(要するに生臭坊主で俗人を騙す俗人以下の「仏教」を名にした悪僧)のような連中に操られ暗い「日本」という小屋の仮舞台で踊り、操り師が逃亡した途端、舞台上の“英雄”の仮面もなくなり、ライバルを殺した気持よさが、今度は自分が殺される番となって「死への道」の不安に戦慄しているのである。
それはともかく、私は或る程度、霊魂の存在を信じている。これはどれだけ科学が発展しても、科学では解決できないことである。
生命の根元や「生への道」のことなど、他日に譲り私の体験からの例を挙げて、霊魂から発した霊波ともいうべきものの存在を信じている証にしたい。
私が亡父(金沢の貧乏士族の四男坊で故永井柳太郎とイトコながら、中山本家を継ぎ、私ら三兄弟同様ノンベエ)に死別したのは五歳であった。胃癌(私の両親系統は癌であるので、私も亡父同様の死に方をすると覚悟している。何よりの証拠に二度目の胃潰瘍等に苦しんでいる)で亡母(三十八歳で七人の遺児を抱えて若後家になった)に抱かれて死に心ならずも亡母の実家(田舎での大地主)で葬式を盛大にされ、私が幼時より育った布施谷節(私が発掘して世に出した)の本場の亡母の里で葬られた。私は暴れん坊のため、亡母の実家へ預けられ、長兄のふところに抱かれて寝ていた。忘れもしないが、ドシャぶりの五月六日未明、大座数の床の間の大仏壇の鐘が鳴った。祖父母も長兄もびっくりして跳ね起き、それぞれの部屋からローソクをともして仏壇へかけつけた。私も眠い目をこすりながら長兄の後についていった。祖父母は「鼠がオボケサマ(お供え御飯)をたべに入っているのやろ」と三重の大きな扉をあけ、四人でよく調べたが、鼠のネの字もなかった。不思議やといいながら部屋へ戻り、私は長兄のふところへ潜り込んでウトウトしていた。すると門の戸をドンドン叩く音がする。長兄は跳ね起きて出て行き、耳戸をあけたところ、約一里暗い猛雨の山坂を越えて、亡母の親類の富山県魚津市のお寺で亡父が恋女房の亡母に抱かれて死んだという「死に触れ」の人がぬれ鼠になってかけつけて来たのであった。十四歳で一家の当主にならざるを得なくなった長兄は蓑笠つけて素足にワラジをはき、けわしい山坂こえて行った。亡母や長兄らの悲嘆を知らず、亡父が湯灌をされている時、みんなが泣くのが不思議でならず亡母にしがみついて「何で泣くがや」ときいたら一層みんなが号泣していた。私の背は亡母のヘソあたりであった。葬式の時、沢山の人が集まっているのが嬉しくてならずイトコと飛んだり跳ねたりして大騒ぎし、亡母らを一層泣かせたものである。
亡父は慈父で、亡母は厳母であったが、私にとっては父なんかどうでもよく、母があれば天下恐ろしいものがなく、楽しかった。幸い、亡母は喜寿で曾孫のことまで世話をし、枯木が倒れるように自然死した。三男坊ながら、亡母の「お前だけでも傍にいてくれっしゃいや」との言に従って出来るだけの孝養をつくしたので思い残すこともないし、亡母がこの世にいない以上、もはや富山なんかの田舎に埋れるに当たらないと長兄の命のままに“砂漠東京”の片隅に住むことにしたわけである。
脱線して申訳ないが、亡父の場合も霊魂から発する(霊波みたいなもので、チャンネルが合わねばテレビにもラジオにも反応がない)が、祖父母、長兄、私の四人に対して大仏壇の中の鐘を鳴らして「あとを頼む」と無言の念力を届かせたものといっていい。
次は小学校五年頃のことである。初夏の未明、小便しに起き、茅室の仏壇の間で一人再び床に入り、布団を首まで着てウトウトしていたら、途端に布団の裾が重くなり、息苦しくなった。多分、猫か鼠が足の上にすわったのだろうと思って、足で蹴飛ばそうとしたが動きがとれない。そのうちずるずると足もとから胸の上に這いあがってくるものがある。変だナと思って「妖怪変化ござんなれ。これでも長姉、両兄ら東京ぐらしのため、母と末妹を守っている中山家の留守番だ」とふんばったが、身動きも出来ない。何糞と力んでいると、布団の上に面と向かって顔を出したのは、見知らぬ蒼白の老人のやせ衰えた顔である。思わず、母方の真言宗高野山派別院・小川千光寺(足利義昭将軍が二ヵ月亡命していた)流に従い、「南無大師遍照金剛」を唱えた。すると、ふっと幽霊じみたものが消えて、身体が軽くなった。私の唸り声に亡母と末妹が隣の部屋から「何やったかいネ」と起きて来た。恐ろしがると思って「何でもないがや」と答えて安心させ互いに再び眠りについたが、あとで聞くと、丁度、私が寝ていた下は昔竹薮で誰かが野垂れ死にをして葬られていたところだということだった。私が思わず知らず唱えた「南無大師遍照金剛」の声で、名知らぬ野垂れ死にの流浪の老人が成仏したらしい。これも“迷信”とか“幻覚”とか“錯覚”で片づけられる人は幸福である。
第三番目にもう四十余年前になるが、私が処女詩集「石」を出して間もないころ、富山市の諏訪神社境内の隣り(丁度、福士幸次郎氏が仙人さながらに糸魚川から突然訪ねて来た頃、これは霧林道義君主宰の詩誌「壺」に一寸書いたが)の借家にいた頃、やはり同じように朝方小便しに起きて床へ入ってウトウトしていた途端、布団の裾が重くなった。オカシイと思って首を上げたら三姉が立っていた。私が思わず「姉さん」と叫んだら何もいわず、すっと消えた。途端に電報!という声だった。みると義兄高倉実(富山県魚津市布施谷節保存会長)の「ヨシ死す」という電報だった。三姉高倉ヨシ(亡父は何でもヨシと命名したが、私は昔も今も自慢しているように、浄土真宗でいう「妙法人」で“生き仏”のような人だった)が腸チフス(これは一昨日も日本詩人連盟総会で会長に重任なった白鳥省吾氏=明一日の日本歌謡芸術協会総会でも会長に重選の予定=と語り合い嘆いたが、私の盟友で白鳥門下の高弟、故千万喜久君も昭和四年腸チフスで夭折した)で絶命の直後だった。一ヵ月足らずの間に四歳の咲子、秀才だった長男一(11歳)を連れてあの世へ行き、あと取り息子は生後一ヵ月で無心に泣いていた。
私は可愛がっていた三姉の長男の死を悼み泣きながら書いた追悼童謡集「石段」を昭和七年かに「詩と民謡」社から出版した。三姉が死んだ時無心に泣いていた甥の高倉義友は二児の父となり、西布施郵便局長をし、私や亡父に似てノンベエだが、“男の貞操”を守り、38歳(丁度亡母が亡父に死別した年齢と同じだ)で男後家になりながら古稀をとっくに越えて「布施谷節保存会長」を勤めているので、三姉が霊波で「テイちゃん、頼んます」といったのにこたえることが出来たと思っている。その他、霊波で色々のことを知らせてくるが、一々の事例を省こう。
よく「一目みた時好きになったのヨ、何が何だか判らないのヨ」式に、赤の他人同志がふと行きずりに、無言の眼と眼にあわせた途端、互いに心臓がドキドキし「生まれた時は別々でも、死ぬ時は一緒にね」となり、越中おわら節の「三千世界の門松ア枯れても、アンタとそわなきや娑婆へ出た甲斐がない」となるのは俗に性格の一致などと片づけられているもの以上に、霊波の感応がピタリと一致するところからくるのである。
私は表面的にはさりげなく万人同様に交際しているが、扇の要で人に接しており、滅多に心を許さず、孤独・孤高を守っているので、人によっては敬して遠ざかる向きもある。ただ、私は初対面の時、相手の眼を見、電波によって感応すれば、トコトンまで自分を犠牲にして、一切を相手に献げつくすことにしている。この電波なるものには狂いがないようだ。俗にいう「一目惚れ」などというものは電波(心といってもいい)の感応如何によるものである。
猫でも犬でも鳥でも草でも同じことで、同じ生物である以上、電波は通じあう。私の体験からいうと、色々の人々の宅を訪ねた場合、飼い猫なんか、他の同客のところへ行かずに、私の膝へ上って来て、しまいにはゴロゴロとノドを鳴らしながら寝てしまう。これは私を同類と直感(電波で)した現われだろう。
一々書くときりもないから省くが、同じ「死への道」の門出に立つなら、こんなやり方も面白く楽しいだろう。
私の親類に東京で大金持がいた。戦前「生き葬式」をした。白装束を着て棺の中へ入り自宅で生臭坊主共多数の読経や家族らのオカシサをこらえての神妙な喪服を着ての焼香を眺め、葬列賑やかに菩提寺に着いて本葬そっくりにさせ、棺桶の中から首を出して「誰某が来たワイ」と喜び「あいつ、まだ来んのか」と舌打ちをし、やがて大料亭を火葬場代わりにして香奠の上に加えて「飲めや歌え」と芸妓総上げで騒ぎ、再び葬列を整えて自宅へ戻って「やれやれ、くたびれた。誰がいくら香奠を持って来たか、調べてみい」と家族に命じて高イビキで寝てしまった。そして「おれは生き葬式をしてもらったし、香奠も先にもらったから、本当に死んだら、お前らだけでこっそり葬ってくれ」と云って翌年大往生をした。
私は故伊福部隆彦大人とよく人生道場社の二階で飲んでよく語りよく談じ、日本や世界の将来について意気投合したものだが、二人できめたことは「生き葬式コンクール」をやろうということだった。日比谷公会堂あたりを借り切って、入場料をとり、二人それぞれ好き勝手な死に装束で棺桶に入って舞台に並び、どちらが香奠が多いか、試そう。そして「あいつ、ケチン坊でこれだけしか包んで来なんだか」と棺桶から首を出して笑ってやろう。香奠、入場料等の収入一切はその場へ投げ出して、ノメやクエの乱痴気騒ぎをしよう。死んでからどんな立派な葬式をしてもらっても面白くない。どうだ、互いに有志を募って“生き葬式”コンクールをやろう!ということだった。だのに伊福部大人は自分一人で私との約束を破って先にさっさと昇天したので「ずるいぞ」とうらんでいる。仕方がないから、出来たら私一人ででも「生き葬式」をしたいと思っている。だって「死んでしまえばそれまでヨ」で、死後のことは私の関知しないことだし、同じもらうなら生きている間に香奠の先取りをした方が得にきまっている。死んだら、世の俗人は香奠をケチンボするにきまっているのだから――。
それはさておき、近年まだ迷うている友人はウロチョロして夢の中に出てくる。何やら云いたいような風だが、私へ頼みに来ているのだから、黙っている。判っとる、おれだって忙しいんだ、というと安心したように姿を消す。時々、夢の中で「君は死んだ筈だが、生きていたのか」とびっくりして聞いたら「死人に口なし」で、夢の中でも死人は何もいわない筈なのに「先生、先生」といったきり、ふっと姿を消す。大抵朝方夢の中に出て来て何かと物をいう。ハッと目をさまして「君が死んでからどれだけたつと思うか。心配するな。君の最愛の妻子は元気でいるヨ」と呟くこと度々である。
これは心理学上からいえば笑いごとだが、遺族らの夢に現われず、私だけの夢に出てくるというのは、笑いごとではないような気がする。彼ら、家族よりも私を頼りにしていた故人は、愬えるとすぐ感応してくれると、私を頼って、せめて夢(白昼夢に出るとボロクソに叱り飛ばすから)に無声の声を呟いているのだろうと思っている。
霊波を感応する人と、しない人がある。感想するのは女性に多く、男性に少ない。私の場合、男性ながら霊波を感応する方で、あまり霊波の知らせに誤りがない。私が一目見て直感的に嫌な奴だと思った人は、私の多数の友人からも嫌われ者だとあとで判ったり、一目で意気投合を感じた人は、私の知友とて同じだということになっている。
俗に「虫くうタデも好き好き」というが、チャンネル(霊波の合致)が合わねば、短い人生では何の生き甲斐もなかろう。
私と伊福部隆彦大人の場合、昭和初年論争の果て、一度も会わないのに意気投合したというのも、二人の電波が、無限大の時間と空間の切線、接点に立って合致したという実証にほかならない。これは単に人間だけでなく、万物一切が根元を同じくしているから当然のことである。ただ、先哲が無可有の世界に隠れてから長い時間のあと、無声の声を感得し、先哲と同化できるか、どうかは別である。問題はすべてをむなしくし、小我から大我へとけ込むけわしい道、数多い鉄の関門を、孤独に泣き、死と格闘しながら、打ち破り、切り拓いてゆくか、どうかである。
「信ずる者は幸いなるかな」で、一体、この世に、信ずることと愛すること以外になにがあるのだろうか。キリストでないが、野の白ゆりを見よで、信と愛に生きるものは霊感、霊波によって、万物の「生と死」の哲理・真理を直感でき、生死一如、仏法でいう「依正不二」の世界へ悟入できる。
要するに「生楽し、死もまた楽し」が、人の生き方の本筋だろう。
次回は「生」の問題に移りたい。
(48年6月30日)
(元・北日本新聞社長)
(註一)15頁「孤独の液しさ」は「孤独の淋しさ」ヵ
(註二)「大座数」は「大座敷」ヵ
(註三)20頁上段「感想するのは女性に多く」は「感応するのは女性に多く」ヵ
(註四)20頁下段「虫くうタデも好き好き」は「タデくう虫も好き好き」ヵ
掲載誌:『人生道場』 昭和48年8月 14ページ