, 随筆

巻頭の辞「詩は滅びるものか」

☆第十一回読売文学賞の詩歌・俳句賞に村野四郎氏の「亡羊記」が選賞された。これは佐藤春夫氏の「今年は詩に贈りたい」の提言と室生犀星氏の推薦できまったというが、詩歴四十年の村野氏としては遅きに失した賞であろう。三昔程前「詩をすてる」と宣言した室生犀星氏が詩をすて切れず依然詩を書いており「現代詩の一頂点」として「亡羊記」を讃えた言葉の中で「詩は詩人だけの持ち物であって他の人には用がないのである。詩は奥へ奥へとすすみ後を振り顧ることがない。詩は文学の中でももっともあたらしいやつで、あたらしいために滅びることをかくごしているやつである」(読売新聞昭和三五・一・二五日所載)と述べている。そうであろうか。
☆同じ三昔前に菊池寬は「詩は滅びる」と言った。室生氏の言と似ているが、この「滅びる」の言葉に問題がある。否、現代においてはすでに「滅びた」のかも知れぬ。この「散文」時代は「詩」を失っている。科学、合理主義、非情等々の時代に「詩」は扼殺されたのか、稀薄となったのか。新作民謡にも童謡、歌謡にも詩が少い。あるのは電波商品の氾濫だ。詩論も詩評も影を潜めた。だがそれなればこそ、人々は詩を求めている。詩は宇宙に遍在し、充満しているが、とらえられないのだ。否、とらえる人が少くなったのだ。
☆詩は生きている、永遠に。滅びたのは形骸だ。詩は「神」のように詩を信ずるものの中に在る。詩を信ずるのは「業」だ。(T・N)

掲載誌:『詩と民謡』 昭和35年3月 1ページ